気ままな日々

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東日本大震災後はじめてのKeithの日に思うこと

きょうは8年前、Keithが突然旅立った日。
11年と1ヶ月と1日のすこし短い命でした。
その日の夕方までボールを追いかけ、みんなと楽しく遊んでいたのにあっという間に逝ってしまいました。


わたしはJeffを迎えてから足繫くブリーダーさんのところに通っていたので何度かお産のお手伝いをさせていただき、そのことを常に夫に話していました。すると夫もぜひお産を見たいといい、ブリーダーさんにその希望を伝えておいたのですが、「お産がはじまるのでどうぞ」と電話がかかってきたのがちょうど夫が休みの日でした。
Keith を取り上げた夫はにっこり笑って、「この子はうちの子だよね」と言ったのです。
2頭目を迎える予定などなかったのに、夫が休みの日に生まれたことがご縁で我が家の家族になったKeith。その日から我が家に迎える日まで、夫は休みのたびに、わたしはJeffを連れて1日とおかずブリーダーさんのところに通いその成長を見守り、お世話をしました。
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                         Keith 生後6日目

             わたしにイヌとの付き合い方をたくさん教えていってくれたKeith。
       君に教えてもらった「イヌのこと」は今もわたしの中に君との思い出とともに生きています。
                   心からの感謝の気持ちを送ります。ありがとう。
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                            Keith 7歳
          Keithとわたしをよく知るお友だちから頂いたカードで今も心に残る一言があります。
              「Keithは最期までKeithの美学を通しましたね。すごい!」
            その通りだと思いました。Keithは最期まで駆け抜けていったのです。
                   これぞKeithというわたしの大好きな1枚です。





東日本大震災後はじめてのKeithの日に思うこと。
 
喪失に伴う悲しみ(悲嘆) 

最後に来て最初に逝ったSunny,次に突然逝ってしまったKeith,そして最初に来て最後に逝ったJeff
3頭の4本足の家族がそれぞれ違う形で別れを告げていったことは、どのように死を迎えるのか、別れ方の違いによる悲しみの違い(死の受容までの道のり)を教えていってくれたと感じています。

Sunnyは治る見込みのない病のとき、いつ引導を渡すのか、つまり人がいつその動物の死を選択すべきか=その苦しみから解放してあげるのかということ(「安楽死」という言は嫌いです。「尊厳を守る」と言う方がわたしの感性にはマッチします)、いつどのような形で医療をやめるかということを考えさせ、教えていってくれました。その時に学んだことでJeffを看取る過程では迷うことなく医療を切ることができ、悔いのないすばらしい別れのときを迎えることができました。
そして、突然の別れを経験させてくれたKeith。

別れはどれもみな悲しいものです。
とは言え、なかでも予期せぬ突然の別れはとても辛いもの。
癌で逝ったSunnyはわたしに3ヶ月の時間を、Jeffは1年の時間を与えてくれました。
別れを覚悟すれば、心の準備ができます。
突然の死は覚悟のないところに現れ、一切の心の準備をさせずに愛しいものを連れ去って行きます。

それぞれの人の成育歴、失った命との関係、今おかれている環境によって違いはあると思いますが、わたしが感じたものは同じ悲しみでも悲しみへの”道のり”は大きな違いがありました。
「突然の死」の悲しみは、切り立った崖から突き落とされたように一瞬にして深いこと、そして現実として受け入れることがむずかしいこと、一方「覚悟して迎えた死」の悲しみは、別れのその時からあるいはそれ以前からなだらかな坂を下っていくようにその悲しみの淵にたどりつき穏やかに感じる悲しみであること。そして別れのあとの時間(経過)の中で起こる心の振幅もそれぞれ崖から落ちるように激しく深い悲しみが突然繰り返されるものとやわらかな深い悲しみが穏やかに繰り返されるものとの違いがあるように感じます。
数年経った今でも別れのその時を思い出すと当時と同じように激しい悲しみとしてやってくるものとやわらかな悲しみとして思い出されるものとの違いがあります(おそらく悲しみの深さは”量”の違いではなく、失う者にとって去る者の存在の違いによる”質”の違いであると思います)。

悲しみを生んだ事実(事象・事件)を忘れることはないけれど、時間の経過とともに「あの時は悲しかったね」と語れるまでに、悲しみそのものは小さく小さくなりいつかは消えるものかもしれません。しかし、それによってできた心の傷はなくならないのだろうと思います。わたしは母を亡くしてすでに40数年も経っていますが、母との別れのシーンを思い出しても涙や悲しみを伴わず回想することができるようになりました。でも、心の痛みは残っています。果たしてそうなるまでに何年かかったか今では定かではありませんが、おそらくここ10年位、つまり死後30数年はかかっているような気がします。もし心のプロとの出会いがあったらもう少し早く上手に自分の心と付き合うことができたかもしれません。

もうひとつ確認しておきたいことは、ペット・ロスという言葉でペットを失うことによって起きる悲しみが特別なもののように受け取られている節がありますが、「ロス」とは「愛するものを失った者が必ず持つ喪失感・悲嘆」のことです。ペットであろうと人であろうと、家族であろうと友人であろうと恋人であろうとすべては「喪失に伴う悲嘆」のことです。

そこで今日思うことが、東日本大震災で突然愛するものを失った多くの方々のことです。
人それぞれ経験・成育歴も違いますし、年齢や今おかれている環境、失った愛する者との関係によっても「死」に対する感じ方、喪失感・悲嘆は異なるものだと思います。東日本大震災で突然家族を失われた方々、お一人お一人、それぞれに大切な気持ちがあるのだと思います。そのような方々、子どもたちの力になれる心のプロの方が被災された方々のところには必要だと感じています。政策として学校に臨床心理士を派遣しているようですがまったく数として足りませんし、必要なところは学校だけではないでしょう。個人やボランティアだけではとても足りないでしょう。政府は財政も除染も原発のことももちろん大切ですが、1日も早く多くの笑顔を取り戻すために心のケアにももっとたくさん取り組んでほしいと感じています。

突然逝ってしまったKeithの命日にこんなことを考えました。
by 1212jeff | 2012-02-16 23:02 | 犬(dogs)